向き不向き

ほぼ日新聞のコラムから引用


自分が、何に向いているのかは、
かなり長い時間悩みの種になったりするような問題だ。
ほんとうに向いていることでないと、
どんなにうまくいっても限界にぶち当たる。
逆に自分に向いたことなら、あんまり苦労しなくても
うまく成功できる、などと考えるのがふつうだろう。

でも、思うんだよ、このごろになって。
例えば、長嶋一茂という人は、
お父さんが長嶋茂雄だから、
かなり野球選手に向いていると予測はできる。
でも、ひょっとしたら母親の血が、
父親の遺伝子を台なしにするくらい
濃い「運動オンチ」だということだってありうる。
つまりは、長嶋一茂だって、
向いてるかどうかについちゃ、悩んだと思うんだ。
もともと、彼の父親の「天才」とまで言われた
長嶋茂雄の両親は、野球なんかやってなかったわけだから、
長嶋茂雄の場合には、向き不向きは、
相当あとになってわかったということだと思う。
そういうふうに考えると、
長嶋さん一家で、明らかに野球に向いていると
断言でいる人なんて、いなかったというわけだよね。

また、最近、へーえと思うことなんだけれど、
世界の優れた料理人の話なんか読んでいると、
かなり大多数の人たちが、
「とても貧しい育ちでした」というようなことを
語っているのだ。
味覚は幼いころに基礎ができるから、
さいころからおいしいものを食べていないと
食のセンスが磨かれない、のだと思っていたのだけれど、
世界的料理人やら料理名人やらが、
貧しい時代に、センスを磨き続けていた
ということではないらしい。
こういうことも、わからないもんだよなぁ。

美術のセンスだとか、音楽の才能だとかにしても、
かなりの部分は、付け焼き刃の連続でカバーできそうだ。

こんなふうに、いろいろな角度から向き不向きについて
考えていくと、ほんとに判断なんかできないと思うんだよ。
やっぱり、飽きずにずっとやっていくうちに、
自分の工夫すべきところに気づいたり、
足りないところを修練で補ったりしていくんじゃないのかな。
そのうちには、その仕事でお金をくれる人も現れて、
その仕事を続けていくだけの経済的な基盤ができあがって、
もっと続けるから、もっと上手になっていく。
こんな感じで、「向いている」に至るんじゃないのかなぁ。

ものすごく向いていて、つまり巨大な才能があるんだけど、
認められないという人も、
いることはいるのかもしれないけれど、
実際には、その巨大な才能が、
他人に発見されにくいってところに、大問題があるわけで。
他人にわかられないで「スゴイ」なんてことは、
表現として成立しないものねー。

ぼく自身のことを恥ずかしながら言わせてもらうと、
高校を卒業するまでの間に、作文とか詩とかで、
ほめられたことなんかなかった。
まさか、自分が文字を書いたりする職業になるなんて、
考えられなかったもの。
だけど、そんなことまでも、こんなふうに、
文章に書いているわけだからさ、わかんないものだよ。
向いてるとか向いてないとかについて、
答えが見つかるまで何もしないでいたら、
ほとんどの人は、一生プータローになっちゃうと思うね。

とにかく、はじめることだと思う。
とにかくはじめて、
失敗したり、認められなかったりして、
それでも、どこがいけないか、どこがいいかを探して、
次のステップに進む気になれたら、
最初よりは、ましになっているわけだしね。

向きだの不向きだの、考えてる場合じゃない。
はじめるこった。
恥をかいたり、無視されたりするためにも、
まずは、はじめるこった。

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まずはじめるしかない。自分の興味の持ったことをはじめようと思った。